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庄内の鶴岡市出身の作家藤沢周平の「たそがれ清兵衛」の映画の中のワン・シーンに庄内竿の小竿でハヤを釣るシーンが出てきた。
たそがれ清兵衛は海坂藩7万石(庄内藩14万石=酒井氏)の藩士である。その清兵衛は禄高僅か50石の下級武士であった。下級武士は半自給自足の生活を強いられていた。と云うのは50石という禄高は五公五民として現実に手に入るのは25石である。更に玄米にすると実収にして2割減で約20石の手取りとなる。一石を一両で換算すると20両、米価や貨幣価値が上がったり下がったりして不安定であった幕末の頃の米の卸価格が一石約4万円前後であるから年収僅か80万円となる。その80万円の中から供の者に給金を与え、亡くなった妻の薬代と葬儀の費用、更に年老いた母と子供二人を養っていたのだから内職は当たり前で、野菜などは自家用を栽培しなければとても生活出来なかった。ことに幕末は殿様の一時禄の借り上げや今より寒く飢饉が多発していたから実際の手取りはこれ以下であったであろうと考えられる。
下級武士の釣は遊釣ではなく、魚から貴重なたんぱく源を取ると云う生活に密着した釣であった。小魚を沢山釣り囲炉裏で焼いた後、陽に当てて乾燥させ長い冬の生活の糧にしたと云うのは下級武士の間では当たり前のことであったようだ。文献によれば晩秋の篠野子鯛(クロダイの稚魚)、クロコ(メジナの稚魚)などは事に珍重され、余った物を売って生活の一部に当てていたという事が記録に残っている。庄内の釣でとかく大型のクロダイや赤鯛釣が釣りの対称にされていた事がメインに出てしまっているが、そんな武士たちもいた事は意外と知られていない。
たかがワン・シーンであったが、庄内竿で清兵衛は友と一生懸命に小バヤを釣っていた。やはり生活に密着した清兵衛の方が釣は上手であった。貧乏な清兵衛は高給取りの武士のように遊びの釣などしている余裕がなかったのである。そんな事を思いながら見た人は少なかったであろう。当時の下級武士の生活を戦後の生きるのに必死で働いてその日その日を必死に生きてきたドン底の生活に当てはめて考える時、共感を覚えるのは自分だけであろうか。そんな戦後の貧しい生活を耐えて過ごしてきた年代の人たちは清兵衛の生活ほどではなかったにせよ近いものがあったように思う。だから、そんな世代の人たちを中心に藤沢周平の文学が最近見直され、共感を得ているのではないかと思う。
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